ぎゅるるる…
「……」
空腹を知らせる音が山に響いた。
昨日、一昨日と何も食べていないのだから無理もない。
レイは腹に手を当て、食べ物がないか辺りを見回した。だが残念ながら、動物の気配もなく木の実すら落ちていない。
あまりの静けさに、レイは眉を寄せた。
この山脈を越えた先にあるのは雪が降り積もる極寒の村ばかりなので、人がいないのは頷けるが、生き物の気配すらしないのはどういうことなのだろう。
まるで、人間を拒んでいるような。
「…!」
もう一度見回すと、遠くに子狐の姿が見えた。
親とはぐれてしまったのか、探すように少し歩いては立ち止まり、を繰り返している。
レイははやる気持ちを抑え、出来るだけ気配を殺して子狐の背後に回った。
子狐は何度か耳を動かしていたが、レイには気付かなかったようで再びとことこ歩き出した。
その背中目掛けて、レイはズボンに括りつけている短剣をすばやく取り出して投げた。
子狐が何気なく走り出した瞬間、短剣が右足に刺さった。
「キャンッ!」と短い悲鳴を上げて、子狐はその場に倒れこみじたばたと暴れた。
命中しなかったことを悔しく思ったが、これでしばらく飯にありつける、と満足げな笑みを浮かべて、レイは子狐に歩み寄った。
そして、しゃがんで短剣を抜きトドメを刺そうとした。
「待って!!」
「!?」
すでに力なく震えるだけになった子狐の腹に短剣が刺さろうという時、背後で女の声がした。
振り向くと、そこにいたのは綺麗な亜麻色の髪の少女だった。
レイと同じく、長めのローブを羽織り外套をかぶっている。
「その子を殺さないで。お腹が空いてるならあたしの家に来なさい」
少女はそう言いながら、子狐に歩み寄り優しく抱き上げた。
「家…?」
こんな人気のない山に住んでいるのか?
と問おうとしたレイを
「こっちよ」
少女が遮った。
歩き出した少女の足に靴は無い。
地面は冬の訪れを予感させる落ち葉で埋め尽くされているというのに、さっきは足音一つ聞こえなかった。
――あの少女、一体何者なんだ?
レイの頭に疑問符が浮かび上がる。
山の化物が少女に成りすましていて、自分を喰おうというのか?
レイがそんなことを考えていると、少女がくるりと振り向いた。
「何してるのよ。お腹、空いてないの?要らないなら別にいいけど」
「えっ あ、いや…」
レイは反射的に腹を押さえた。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えさせてもらうよ」
そう言うと、少女は「そう」と短く言って再び歩き出した。
もし化物の罠だったとしても、なんとか逃げ切れるだろうとレイは思った。
旅の途中で磨かれた足の速さと剣術には自信があるからだ。
それに、もしかしたら本当に食べ物を貰えるかも知れない。
今日の食料を没収されてしまったのだから、何かしらの代償がなければ気が済まない。
頭の中でそう考えて、レイは少女を追った。


無言でしばらく山を登り続けていると、生えている木の間隔がだんだんと狭くなってきた。木も落葉樹から常緑樹に変わり、枝と枝が絡み合い日当たりも悪く薄暗い。
そして、さっきまでは忠告するようだった森の静けさもより酷さを増し、レイと少女の歩く音以外何も聞こえない。
まるで人間を拒んでいるようだ、と感じていたが、この一帯は違う。
拒絶している。
人が踏み入ることを完全に拒否しているのだ。
そんな雰囲気を全く気にせず、少女はどんどん奥に進んで行く。
「な…なぁ、」
レイは空気に耐えかねて、恐る恐る少女に話しかけた。
「なに?」
少女は立ち止まり、肩越しに振り向いた。
「この辺り、なんか…人が入っちゃいけないような感じがするんだが…大丈夫なのか?」
その時、少女のローブの裾が風もないのにふわりと揺れた。
少女はレイの言葉に一瞬驚いたように目を見開いたが、ゆっくりと目を逸らしすぐ側に生えている木を見つめた。
「そう…貴方には分かるのね」
「…は?」
レイが間の抜けた声で問うと、少女は抱えている子狐を撫でながら首を振った。
「何でもないわ。あたしの家はこの先だから、平気よ」
少女が再び歩き出したので、レイも慌てて歩き出す。
更に少し歩くと、先に広い空間が見えてきた。
少女は言っていた“この先”とはあそこのことだろうが、家らしき建物は見えない。
やはり罠だったか、とレイは静かに身構えた。
「…な…」
そう小さく呟いたのはまたしてもレイだ。
目の前に現れた光景に、言葉を失ってしまったのだ。
広い空間に在ったのは、この山々の中で一番大きいと言っても決して過言ではない大木。
巨大な熊が3体集まっても囲めないほどの太い幹に、周りに生えている木とは比べ物にならないくらい長く太くそして高く伸びた枝。
悠久の時を感じさせるその樹はもはや壮大としか言い表しようが無かった。
「…凄い…な」
レイが搾り出した言葉は、そんなありきたりなものだった。
しかし、その言葉を聞いた少女が突然振り向いたので、レイは驚いてほんの少し後ずさった。
「今、凄いって言ったわよね、貴方」
一瞬間が空いたが、レイが相づちを打つ暇は与えてくれない。
「この樹を見てどう思う?ただ大きいだけの邪魔なもの?切り倒してしまえばいいと思った?」
そこまでを一息で言い切り、少女は睨むようにレイを見た。
「そんな!そんな事、俺は全く考えてないよ」
レイは首を振って強く否定する。
だが少女は、何を勘違いしているのか疑うような視線をレイに向けたままだ。
「俺が凄いって言ったのは、変な意味でもなんでもなくて ただそのまま『すごい』と思ったからで…あぁくそ」
こういう時、何と言うのが一番無難なのだろう。
一人旅を始めてもう何年経ったかも覚えていないレイには、適した言葉が見つけられない。
他人とこんなにたくさん喋ったのも、レイにとっては久しぶりのことなのだから。
「ただ、ただ…綺麗だって思ったよ」
自分の語彙のなさを恥ずかしく思ったが、レイの必死さが伝わったのか少女はキョトンとした表情になった。
「綺麗…」
まるでその単語を初めて聞いたようなリアクションだ。
「そう。だってこんな大木、滅多に見られるものじゃない。何千年とか、そういう規模で生きてるんだろうな…。 俺はこんなでかい樹を見たのは初めてだから、何て言ったらいいのか分からないが…」
ふと少女を見ると、かぶっている外套がぴくりと動いたような気がした。
「…そう…そう、なの」
レイの台詞に満足したのか、少女は噛みしめるように何度も小さく呟いていた。
「なぁ、俺も一つ聞いていいか?」
再び少女のローブの裾がふわりと揺れる。
「な、なによ」
「…あんた、名前は?」
虚を突かれたのか、少女はまたキョトンとした。
しかしすぐに我に返り、
「人に名を聞く時はまず自分から名乗るのが常識でしょう?」
と答えた。
その口調にはさっきまでの可愛らしさはない。
優越感たっぷりの人を見下す憎たらしい声だ。
態度の変わりように文句を言いたい気持ちをぐっと堪え、レイは
「あぁ…そうだな」
と苦笑いを浮かべた。
「俺の名前はレイ。零という字を書いてレイと読む」
そう言って、レイは落ちていた枝を拾って地面に“零”と刻んだ。
「で、あんたは?」
少女に枝を手渡しながら、足で地面の文字をかき消す。
「…あたしは『オリ』」
「檻?」
ずいぶん物騒な名前だなぁと心中で呟く。
「違うわよっ」
少女はきつめの口調で否定して、地面に“栞”という字を刻んだ。
「これで栞(おり)。わかった?」
「あぁわかったよ。ありがとう」
手についた土を軽く払って、レイは満足げな表情の栞を見た。
「ついでに聞くけど、あんたどっかの偉い人の家族とかだろ?」
途端、栞が目を見開いた。
が、それ以上は何もする様子がないので続けてレイが口を開く。
「俺の名に漢字は使われていない。というか、俺みたいな一般市民は名前に漢字を使うことは許されていない。 名前に漢字を使えるのは王族と貴族だけだ」
目線を下にやって、栞は口元に手を当てる。
「しまった」と言わんばかりだ。
「こんな山奥に女の子が住んでるなんて変だと思ったんだ。ふもとの村で働きながら暮らせばこんなところに来る必要もないのに。 どこかの貴族の娘がわけあってここに逃げてきたと思えば、名前に漢字が使われていることもその偉そうな口調も全部説明がつく」
得意げに胸を張りたい気持ちを隠しつつ、レイは冷静を装って栞の反応を待った。
すると栞は、開き直ったようにくすりと笑った。
「さっきの零と書いて“レイ”は嘘だったわけ…ずるいわね」
レイはこの開き直りの原因が、逃亡したことが見つかった栞の不安だということを察した。
「それにしても一般の人たちに漢字が使われてないなんて、あの人からも聞いてないから驚いたわ」
いよいよ自棄になったのか、栞はくすくすと笑い始めた。
「あ…でも俺は別にどうするつもりもないから…」
レイが慌てて取り繕うと、栞が今度はあははっと声を上げて笑い
「いいわよそんな心配しなくても」
と言った。
「だってあたしは貴族じゃないもの」
「え?」
じゃあ一体…何者なんだ?
そう問おうとレイは口を開くが、栞に遮られる。
「偉い人の家族って言うのが一番近かったけど。でも残念、説明がつかない箇所はまだあるの」
言って、栞は楽しそうに左手で被っていた外套を脱いだ。
「…は…?」
冗談だろ、と思わず言いそうになる。
栞の頭には、その亜麻色の髪と同じ色の毛が生えた狐の耳があった。
先ほど外套が動いて見えたのは、これだったのだ。
驚いた表情のまま耳を凝視して凍りついたレイに気付くと、栞はぴくぴくと耳を動かした。
「…!」
「ははっ わかりやすいわね貴方」
上機嫌でそう笑うと、栞は左手を腰に当て、強気な声で
「気に入ったわ」
と言った。
手を動かしたことで、ローブの中の尻尾がちらりと見える。
序盤で消えていた化け物説が頭をよぎったが、栞の台詞にかき消される。
「あたしはこの山々の豊穣を司る狐。そして、この国を成す“13の神”の一人よ。覚えておきなさい、レイ」
栞はすっきりした、と言わんばかりの清々しげな表情でレイを見ている。
レイはと言うと、必死に頭を整理するのが精一杯だった。

栞の正体は、貴族の娘でも化け物でもなく、神だったのだから。