遠い昔、この国には十人の神がいた。
氷山を守る氷の神。
恵みを与える豊穣の神。
嘘吐きを見つける運の神。
人を迷わせる境界の神。
すべてを照らす太陽と月の神。
太陽に照らされる青空の神。
月に支えられる夜空の神。
火山と共に在る紅蓮の神。
雲と旅をする曇天の神。
そして、真実を説く自由の神。
神々は、このウェアレンの国を成す十本の柱。
人々は、神々を信仰し語り継ぐ事を天に誓い 彼らをこの地に留めた。
「…ん?」
レイが雰囲気に似つかわしくない間抜けた声を出す。
「ウェアレンって…俺が生まれた国じゃないか」
それを聞いた栞は、「今更?」とでも言いたそうな表情を浮かべた。
レイは、いつの間にか母国に帰ってきていたのだ。国境の警備もほとんどなく、何しろ久し振りなので国の地形すらも忘れてしまっていた。
――帰ってきたんだ…。
そう思うと、懐かしさと一緒にずっと前に聞いた神話を思い出した。
「…あんたが神様ねぇ…」
「何よそれ、驚かないの?」
栞が呆れたような目をレイに向ける。
「もう十二分に驚いたよ。その耳を見た時に」
レイは苦笑いしながらそう答える。
「あれ、でも俺が小さい頃に聞いた話じゃ神は十人だって…」
「それを話してくれた相手、老人じゃなかった?」
栞は特に驚く様子もなくレイに問い返す。
それを見て逆にレイが拍子抜けしてしまったが、顎に手を当て、記憶を手繰り寄せた。
確か一族で旅をしていた時に、立ち寄った村の村長に教えてもらったんだったか。
「あぁ、じーさんだったよ」
「つまりそういうこと」
全く意味がわからない。
ここ数十年の間に神様が増えた、とでも言いたいのか。
「あたし達にも色々あるのよ」
レイの考えを肯定するように、栞は肩をすくめてそう言った。
「で、長話しちゃったけど、貴方お腹が空いてたのよね?」
「あっ」
すっかり忘れていた。
思い出した瞬間盛大に腹が鳴りそうになり 慌てて手で押さえる。
「昨日も一昨日も何も食べてないんだ。何か食べるものを…」
「えッ!?」
驚いた栞の声にレイも驚いて、一瞬の沈黙が訪れる。
「それを早く言いなさいよ。この山で人が死んだなんてことになったら大変だわ」
栞は言いながら、大木の近くに立つ木に歩み寄る。
その背中を見つめながら、レイは そうか、と心の中で呟いた。
確か豊穣の神がいるのは、ウェアレンの食を支える『恵みの山脈』と呼ばれる所だ。そんな場所で人が死んだなんてことになれば、国民はその実り具合と質を疑わざるを得ない。
「…あれ。でもここ“恵み”の山脈だろ?なんで食べる物がないんだ?」
辺りを見渡しても、実のなっている木は見当たらない。
「この辺は日当たりが悪いから実は育たないわ。動物たちも侵入者には近づかないし、貴方と会った時通ったところは麓の村人達が既に実を収穫してしまっていたもの」
レイに背中を向けたままそう言って、栞はその場にしゃがんだ。
そう言われてみれば、栞と会う前に歩いていたところは実はなっていたが、熟していない硬い実か熟しすぎて腐ってしまっている実しかなかった。
「もう少し先に行けば実がなっているところがあるから。でもその前に、この子の手当てをしてからでもいいかしら」
栞が申し訳なさそうに言う。
“この子”とは先程レイが仕留めようとした子狐のことだろうが、あれから大分時間が経っているし もう死んでしまっているのではないか。
レイはそう考えて、少し罪悪感にさいなまれながらも栞の正面に回って子狐の様子をうかがった。
「…あれ」
死んでいてもおかしくないと思ったのだが、子狐は栞の腕の中で苦しそうに息をしていた。
栞は子狐の頭に手を当てると、目を伏せて何かを唱えた。
神様なら、ここで子狐の傷を完治させるくらいしそうなものだが、生憎そのようなことは無く、辛そうだった子狐の様子が少し楽になっただけだった。
しかし栞は大仕事を果たしたというように安堵の溜息をついて
「これでよし」
と呟いた。
神という割には大したことは出来ないんだな。
「そんなにすごい能力は持ってないわよ」
レイの思考を見透かしたように栞が言うので、レイは一瞬どきりとした。
「貴方が分かりやすすぎるだけよ。つまらなさそうな顔をしてこの子を見ていたし、何かもっと楽しそうなことが起きるって期待してたでしょ」
「…はぁ…まぁ、な」
俺って分かりやすいのか?と思いながら、レイは無意識に右手の甲で口元を隠すようにする。
すると、栞がふいに哀しそうな表情になった。
「そりゃあ、あたしだって出来ることならこの子の傷を治してあげたい。でもそんな能力を持つことは許可されていないし、この国のバランスを崩してしまうから…」
――許可…って、どういうことだ?
さっきから栞は、時々訳の分からないことを言う。
「なぁ…」
今の、どういう意味なんだ?
レイは身を乗り出して、栞にそう問いかけようとした。
ぎゅるるるる…
「え?」
「なっ…!」
すごい音量で、レイの腹の音が辺りに鳴り響いた。
顔が一瞬で熱くなるのを感じながらも、レイは両手で腹を抱え、栞に背を向けた。
「今の音、貴方の…?」
答えない代わりに、猫背になりさらに目線を逸らすレイを見て、栞は声を上げて笑った。
「面白いわね貴方。その面白さに免じて、この子を食べようとしたことは赦してあげるわ」
赦す赦さないの問題なのだろうかと思ったが、ここで栞の機嫌を損ねても面倒なので、レイは
「それはどうも」
と曖昧に笑って返事をした。
「それより、あんたの家はどこなんだ?」
話を逸らす為に、わざとらしく周りをきょろきょろと見回す。
「あたしの家は、あそこよ」
そう言って栞が指したのは、今栞がしゃがんでいるところのすぐ横に立っている木の上だった。
大木から伸びた枝とその木の枝がからまり、さらに周りの木の枝も混ざり合って 人が乗れるような広いスペースを作り出していた。
葉が屋根の代わりをしていて、もちろん栞が足したと思われる枝や葉も見て取れたが、もうそこは完全な居住空間だった。
「どう?なかなか立派でしょう?」
栞は得意げに鼻を鳴らす。
「あぁ、そうだな」
再び曖昧な返事をしたレイに、「それだけか」と言わんばかりの鋭い視線が突き刺さる。
栞を見ると、不満そうに口を尖らせてレイを見つめていた。
これには苦笑いするしかない。
今レイの頭には、「すごい」と「立派だ」という途轍もなくありきたりな台詞しか浮かび上がってこないのだから。
どうしたもんか、と考えていると、そんなレイの心情を察したのか 栞が仕方ないと言うように短く溜息をついて、
「まぁいいわ」
と言った。
「この子を家に寝かせてくるから、その後今日のごはんを採りに行きましょう」
そう言って栞は、レイの返事を待たずに子狐を抱えたまま木を登り始めた。
レイにはそんな器用なことはとても出来ないが、栞は軽々と結構な高さの木を登り終えて家の中に入った。
少しして、栞が一見すると巨大な鳥の巣のような家から出てきた。
家の中からは子狐の鳴き声が聞こえてくる。寂しがっているのだろうか。
栞が動くたびに枝が大きく揺れて レイは枝が折れやしないかとひやひやするのだが、栞はもう慣れているようで平気な顔をして幹に歩み寄っていく。
そんな危なっかしい光景を見ていられなくて下を向いていると、頭上から
「痛っ」
と小さな悲鳴が聞こえた。
「うそだろっ」
見上げると、栞がレイのほぼ真上に落ちてきていた。
よく考えれば、栞は神様なのだから木から落ちたくらいでは死なないだろうと分かるが、パニック状態に陥ったレイは 栞を受け止めようと試みた。
数歩下がって栞を抱き止めた瞬間、レイの足首がありえない方向に曲がった。そんな気がした。
そのまま地面に思い切り倒れ込む。
背中に激痛が走り、腹が苦しくて何度かむせた。
体当たりされたのと変わらないような衝撃だったのだから当然の反応だ。
二度ほど脳が意識を手放しかけたが、それでもなんとか気を失わずに済んだ。
直後、レイの上で丸くなっていた栞がはっと我に返った。
「ちょっと貴方なんてことしてんのよ!あたしはこれくらいじゃ死なないから大丈夫だったのに…!」
助けられたのにこの言い様である。
「そ…の前に、降りてもらえると嬉しいんだけど…」
それを聞いた栞は、
「あっ」
と短く言ってレイから飛び退くように降り、その横に立った。
それから手を差し出して、
「…とりあえず起き上がったら?」
と言った。
口調は偉そうだったが、レイには心なしか栞の表情が曇っているように見えた。
「ありがとう」
レイはそう言って栞の手をとり、ゆっくり起き上がった。
あちこち痛むところはあるが、まぁ大丈夫そうだ。
「ホントに無茶するんだから…あたしは神なのよ?木から落ちたくらいで死ぬわけないじゃない」
呆れたような栞の声に、レイは服についた土を払いながら
「だよなぁ」
と返事をする。
「…でも神様なら、そもそも木から落ちたりしないよな?」
そう問うて栞を見ると、栞は悔しそうな顔をして目を逸らした。
「そ、それは…あれよ。足に小枝が刺さって…バランスを崩したの。怪我の回復を早める能力を使った後は少し疲れが残るから…」
「へぇ…神様だからっていくらでも能力を使えるわけじゃないんだな」
「そうよ…って そうじゃなくて!」
突然栞が首を激しく振った。
「は?」
「そうじゃなくて…あたしが言いたいのは…」
急に栞の声が小さくなったので 栞を見上げると、体の前で軽く指を組んで目線を泳がせていた。
何かを躊躇っている感じだ。
「その…ありがとう」
思わず数回瞬きをしてしまう。
栞が礼を言うのにこれだけ時間がかかると思わなかったからだ。
レイはははっと笑ってから、
「どういたしまして」
と言った。
「死なないって分かってても、俺にはあんたが落ちてくるのを黙って見てるなんて出来なかったと思うよ」
直後、栞は急に目を逸らした。
「そんなこと言っても、何も良い事なんかないわよっ お礼はさっき言ったからね!二度目はないわよ!」
口ではそんな事を言っていても、ローブの内側で尻尾がわさわさと動く音が聞こえてくる。
どうやら栞は、素直になれない性格のようだ。
さっきまではこの偉そうな口調に少し腹が立っていたのだが、素直になれずについこのような口調になってしまっているのだとすれば可愛いものだ。
思わず緩む口元をおさえつつ、レイは
「礼なんか要らないよ」
と返事をする。
「なんともないならさっさと立ちなさい。早く行かないと日が暮れちゃうわよ。あたしは平気だけど、この辺りは日当たりが悪いから 日が暮れると真っ暗になって帰って来られなくなるわ」
少し早口でそう言った栞の表情が不機嫌そうだったが、それには気付かないフリをした。
「俺も暗いところは平気だよ。食べ物がある場所を教えてくれれば俺一人で行って――」
言いながら立ち上がろうとした瞬間、左足首に激痛が走った。
「いっ…た!!」
無様に叫び声を上げて尻餅をつく。
靴を脱いで見てみると、見事に赤く腫れあがっていた。
それを見た栞は深く深く呆れたようなため息をついて、
「貴方はここで待ってて」
と言った。
「…はは…」
レイは小さく小さく呟くように苦笑した。